みんなと分かるミャンマー

ミャンマーの平和を願う日本人です。

今のミャンマーを理解する8つの質問

*3/30、もう少し読みやすいように修正。

みなさん、ミャンマーのニュースって日々目に入ってきますよね?

ご存じの通り、2月1日、ミャンマーは大変不幸なニュースで覆われました民主化に歩みはじめ、経済的にもイケイケだったさなかのクーデター発生です。

これがどのぐらい不幸かというと、国民の殆どがその後今まで毎日涙するぐらいです(誇張でなく)。

日本人にしてみれば、その他多くの不幸なニュースの一つではあります。ほとんどの人にとってできることはありません。でも、ミャンマーの人たちは日本人がミャンマーのことを知ってくれて応援の声をもらうだけで力になると言っています。

なので、この記事をお届けします。

 

ミャンマーの今を理解するのははっきり言って難しいです。そのためには歴史を結構深めに知る必要があるからです。ミャンマーをテーマにして無茶苦茶いっぱい本が出てますが、たぶん数冊読んでも分かった気にもなれません。

なので、ここでは直近の事象が起きた理由から始め、なぜ、なぜ、なぜ、と掘り下げることで何冊も本を読まなくてもミャンマーの今の背景を知れるようにしてみました。ちょびっと長いですがお付き合いください。

2月1日以降何が起きていたのが知らない人は↓でどうぞ。

Q1:国軍がクーデターを起こした理由は?

答)①国軍の政治的影響力の低下と②経済的な既得権の浸食を嫌ったため。キッカケとしては国軍総司令官の個人的な定年後の野心(次の大統領になりたかったともいわれる)や民主派側の選挙不正(と恐らく軍内部では本当に信じられていると思われる)が存在するが、クーデターに繋がる大きな流れの中ではやはり前記①及び②が大きい。

補足)元々、国軍側が起草した2008年憲法では、上下院それぞれ全議員の25%は国軍司令官が指名する軍人であるほか、憲法改正には全議員の75%の賛成が必要。しかし、2015年、2020年の民主派側の圧勝で、軍が25%議席を抑えていても改憲を進める流れは無視できない大きさになっていた。また、軍関係者や退役軍人の行政機関への天下りは、軍系政党が野党に下った2016年以降徐々に縮小していた。

経済面は、1962年の軍政当初より進めた国有化政策で、国有企業幹部に将校がばらまかれ、軍に入ることはキャリアと生活を得る上で最高の選択の一つだった。88年以降にはこれを改める方向に舵を切ったが、市場化の流れの中、ミャンマー・エコノミック・ホールディングス(注1)等を設立し軍の経済利権を温存してきた。しかしながら、2015年の民主派の圧勝以降、こうした事業に対する国内・海外の圧力が強まっていた背景がある。

(注1)Myanmar Economic Holdings Public Company Ltd.: 退役軍人や軍地方司令部が株主として連なる持株会社の一つ。配当金が議会を通さずに直接、軍組織や関係者に流れている(軍は退役軍人のための正当な福利厚生の一つと言っている)。100を超える子会社等の親会社であり、外国企業は1990年代から合弁相手として「活用」。国際NGOが軍に多額のお金が流れていると批判。2021年3月25日に米国制裁対象に指定

 

Q2:国軍が政治参加し利権が温存された理由は?

答)1962年からの軍事政権の長期化により、軍の既得権が経済・社会に組み込まれてしまったことが主な理由。

補足)軍政への不満が十分高まるまでの間に、軍が直接事業を行うなどして独自財源を確保し、また、軍人が官僚組織に天下り行政組織を掌握するようになった。これらにより文民統制(軍人でない人が軍の上に立ち、財政的な監視も受けている状況)から逃れる財政構造及び既得権層・政治エリート層を再生産する組織体制が構築された。

こうした中では、国家運営に失敗し国民の大多数が不支持を表明しても、既得権を共有し財政的にもほぼ独立している軍組織に大きなダメージを与えることができず、1988年1990年2007年民主化運動の弾圧、そしてその後の軍政継続とその制度化を無理やり行うことができてしまった。

なお、軍政を正当化するために、「少数民族武装勢力の存在」及び「国の一体性保持保」を挙げる言説もあるが、軍を文民統制下におきつつ各地域の自治を徐々に進展させていく方法もあるわけであり、国民の大多数が反対するにもかかわらず、軍政の必要性を少しでも正当化し主張するには無理がある。

 

Q3:軍事政権が長期化した理由は?

答)英国からの独立後1948年~61年まで国が安定せず、軍政は混乱を治めるために少なくとも短期的には必要悪と捉えられたため。これがしょうがないことであったかを今のミャンマー人に聞いたら間違っていたと答えると思う

補足)独立後すぐ、完全な土地国有化や英国人・インド人その他外国人の利権を根絶したい共産党と独立を求めるカレン民族同盟(KNU)が武装蜂起し、ミャンマー国軍内の共産党に近い軍人や少数民族部隊がこれらに同調し離反したことで内戦状態となった。加えて、シャン、カチン、ラカインなど現在に連なる少数民族勢力もより大きな自治を求めて闘争を開始した。大きな武装蜂起は1950年ごろには治まったが、地方部での衝突はいくつかの停戦合意を挟んで今まで続いている。

また、50年代後半には説得力のある理由が見当たらない「不幸な事故」と言われる与党分裂がおこり、治安も悪化した。こうした中、軍政初期にネウィン将軍は、激しい言論弾圧をする一方で、荒廃したヤンゴン市内の浄化(文字通りきれいにした)と、これまで断絶していた地方州との交流を無理やり実現させた。

ただし、大きな武装蜂起は50年ごろには平定されていたため、その後政局混乱及び小規模な武力衝突や治安の悪化があったとしても、軍が政治介入すべき「積極的な」理由とするのはやはり難しく、なぜ国軍が政治参加を望んだかという点の方が重要と考えられる。

 

Q4:国軍が政治参加を望んだ理由は?

答)ミャンマー国軍には独立運動初期から政治運動として武装闘争に参加してきた軍人が多数おり、特に1962年~1988年まで実権を握ったネウィン将軍(注2)独立運動を率いた一人だったこと。また、激しくなる内戦や国境防衛に対応するための国防予算を増額する必要が高まっていたため。

補足)ミャンマー国軍は、元々与党と一体不可分の関係にあったが、独立に向けてアウンサン将軍が軍は政治に関与すべきでないとして、党と分離した経緯がある。したがって、分離されたあとも、国軍内には独立運動初期からのリーダーや、そうしたリーダーの下で戦場で戦った兵士が多くいた。

また、独立後すぐ、中国毛沢東政権が中国国民党軍(注3)をミャンマー北東側の雲南まで追い詰め、中国国民党軍残党が1万人規模でシャン州北部に侵入。これが1950年以降本格化しミャンマー国軍は苦戦し国防費の増額を求めていた。必要な防衛費を確保することに苦労する中で政局の混乱を見ていたということだろう。

(注2)「ネウィン将軍」: 1941年12月26日、タイ・バンコクで日本軍の支援で結成された「三十人志士」の一人で、アウン・サン将軍(アウンサンスーチー氏のお父さん。独立直前に暗殺された。)と共に戦中の反日本・反植民地運動と独立運動を率いた。「三十人志士」は現在の国軍の祖(の一つ)とされる。クーデターにより政権掌握、1962年~1988年まで最高権力者として実権を握った。なお、細かくは1958年にもクーデターにより政権を掌握し、2年後に政権を返上した。

 (注3)「中国国民党軍」:1949年に中国共産党に敗れた中国国民党とその軍は台湾に逃れたが一部が南に追い詰められミャンマーに侵入。

Q5:独立後に政党間の争いが激化した理由は?

答)独立を実現し憲法を作成する過程で、完全な土地国有化や英国人、インド人その他外国人の利権を根絶したいビルマ共産党と、穏健な資本主義的社会主義を志向するアウンサン将軍が率いた勢力(独立後の与党)の争いがあったため。

補足)アウンサン将軍は戦時、日本軍の支援で組織した「ビルマ独立軍」をビルマ共産党などと糾合して、ファシスト(注4)及び独立を目的とするグループ:「パサパラ」組織した。パサパラは政治活動を行う武装勢力であったが、戦後は政党としてのパサパラと武力部隊とに切り離され、この武力部隊が、ビルマ人以外を主力とする英国の植民地軍と共に解体・再編成され、新しい正規軍が組織された。

一方、パサパラは政治団体として残り、独立に向けた英国との交渉や憲法起草を主導した。しかし、反ファシストという共通の目的が無くなったことで、一度はパサパラに参加した共産党勢力は次々に離脱・反目するようになった。(パサパラに参加すらしなかった共産党勢力もあった。)

 (注4)「反ファシスト」:基本的に、戦時にミャンマーを実効支配した日本に対する闘争。難しい定義がありそうですが、ファシスト=「武力、経済力など様々な手段を用いて他者・他国を支配することを目論む人や国」ぐらいに理解しとけばいいと思います。

Q6:独立後に党派内・党派間の争いが治安悪化に結び付いた理由は?

答)政治的組織と武装勢力が結びついていたため。

補足)上述のとおり、独立後の与党・パサパラは、もともと政治活動を行う武装勢力であったが、独立直前に政党としてのパサパラと武力部隊とが切り離された経緯がある。この武力部隊の部分と英国植民地軍が合流する形でできたのが独立後の国軍である。

正規軍内の旧独立軍系兵士達は、反ファシストにおいては同根だが、共産党支持の将校や兵士も多く含まれていた。また、旧植民地軍系兵士達は、カレン民族などビルマ族以外の兵士が殆どだった*1。こうしたことから、独立後に政党間の対立が生じたことで、対応する将校や兵士が正規軍から離脱することになった。

ちなみに、ネウィン将軍は、内戦を平定する過程で今後こうした分裂を起こさないためにも国軍組織の強化拡大と改革を進め、士官学校設立や中央・地方勤務の異動制度のほか、銀行、海運など事業活動に進出し、福利厚生や軍財政の安定を図った。

 

Q7:独立後に民族間の争いが激化した理由は?

答)早期の独立を優先せざるを得なかった結果、1947年憲法少数民族居住地区としてシャンカヤーカチンの3自治州とチン特別区カレン自治州は1951年になって設立)のみに一定の自治を認めたため、カレンラカインモンの人々が自治を求めて立ち上がった。

補足)戦後、独立でなく経済復興を優先しようとした英国と、反ファシストと独立闘争を行ってきたパサパラが衝突し早期独立の世論が高まった。1年以内の独立を認めたアウンサン=アトリー協定が1947年1月、同協定に基づき少数民族と政治交渉を行った結果のパンロン協定は1か月後の2月12日に締結された。

ただし、パンロン協定では、①英国から独立国の扱いを受けていたカヤー(注5)や②英国植民地下に直接統治の対象となった地域にその多くが住んでいたカレン族はオブザーバーとして参加できただけで、直接統治地域の③ラカインや④モンは出席もなかった。

カレンにはキリスト教を受容した人々と多数派の仏教徒がいるが、第二次世界大戦中にビルマ民族主体の独立軍と激しく衝突したことで(ある程度の)「カレン」アイデンティティが形成される契機になった。

ラカインにはラカイン北部のイスラム教徒の自治を求める勢力と仏教徒との抗争があったが、ミャンマー政府に対してもそれぞれ地域の自治を求めて対立した。

モンの人々や既に一定の自治が認められたシャンカヤーカチン州においても自治拡大を求めた武装蜂起が生じた。

 また、1947年憲法上、シャン州とカヤー州のみに対して独立10年後に独立を再検討するとされていたことで、不公平に扱われた地域間の衝突の原因となった。

(注5)この地域では英国植民地運営に大変重要な錫やチークが採れたので征服よりもこうした重要物資を先住民が求める対価で平和的に入手することを優先したと考えられる。錫は1810年ごろから需要が高まったブリキの缶詰の原料でこれは長い航海に必須だった。チークも造船と船修理に必要だった。

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※7つの州は少数民族が多く住む地域とされる。

Q8:民族間の分断が生じた理由は?

答)三度の英緬戦争の過程及び植民地下において、①ビルマ民族が植民地軍から締め出されたこと、②英国分割統治の下でビルマ人が多く住む中央部と少数民族が多く住む地方部の交流が制限されたことが理由。

補足)ミャンマーは第一次英緬戦争(1824-26年)で現在のラカイン地方とタニンダーリ地方を失ったが、英国はこの両地方で原住民部隊を編成し、ラカイン人部隊とモン人部隊を編成した。また、第二次英緬戦争(1852年)ではヤンゴンを含む下ビルマを失ったが、その際には主力のインド人部隊に加え、ラカイン人部隊とモン人部隊などの部隊が英国側で動員されていた*2

第三次英緬戦争(1885年)には、ビルマ含め全てが英国植民地となったが、その際にはカレン人部隊も編成され動員された。こうした原住民部隊は、それぞれ戦後は「武装警察」としてビルマ人が多く住む中央部の都市で治安維持にあたった。ビルマ民族は英国植民地に併合された後も1887年まで入隊を認められず、最後まで入隊は限られていた(ビルマ人が英国への協力を望まなかった側面もある)。

また、英国はビルマ人が多く住む中央部を直接統治した上で大量の資本を投下しインフラを整えていった。一方、地方部は自治を基本とする間接統治とされ、古くから続く土着の領主(つまり統一的な行政機能がないまま)による支配を温存し、ビルマ族が多く住む中央部と地方部の往来も制限した。こうした政策は結果として中央部と周辺部のアイデンティティの分断を促した。

(注書)
今の現状や制度がどうなっているかではなく、なぜそうなっているのかわかることを目的にしています。今の現状については色々な方が説明してくださっているのでそちらを参考に。
あと、ミャンマーのことを知らない人に読んでもらうことを想定して、固有名詞や個人名を極力出さないようにしたり、枝葉の事実をあえて記述していません。なのでビルキチの方は何でバモウ博士や鈴木大佐のことが書いてないんだというご指摘があるかもしれませんがご容赦ください。

(参考文献の一部)
・大野徹(1970)「ビルマ国軍史」(その1、2、3)
石井米雄/桜井由躬雄編(1999)「東南アジア史1」
・西澤信善(2000)「ミャンマーの経済改革と開放政策」
・Myat Thein(2004) "Economic Development of Myanmar"
山口洋一(2011)「歴史物語ミャンマー」(上下巻)
根本敬(2014)「物語ビルマの歴史」
・津守滋(2014)「ミャンマーの黎明:国際関係と内発的変革の現代史」
・宇田有三(2015)「観光コースでないミャンマー