みんなと分かるミャンマー

ミャンマーの平和を願う日本人です。

国営企業と国軍企業について知っておきたいこと

ミャンマーには、国営企業が32社国軍系企業が2社(及びそれらの関連会社)存在しています(2016/17年度時点)。

1988年までの軍政下では大きな会社は全て国営企業で数にして数万社があったようですが、1989年以降に一定の業種以外は自由に事業ができるようになり、国営企業の民営化も(一応)実施されたので、国営企業の数はかなり少なくなりました。

この間、国営企業の地位低下と民間企業の台頭の間隙を最大限利用したのが国軍です。国軍は、早々に特殊会社を設立し、民間に解放される業種にいち早く参入していきました。免許や許可が必要な事業に有利な立場で参入できることを見越して、民間企業や外国企業も国軍系企業と手を組むことを選んできたとみられます。

このような国軍の経済利権は30年かけて経済に深く組み込まれてしまっているので、簡単に変えることはできませんが、今後のミャンマーを考える上では見過ごせない点だと思います。

以下、この辺りを少しでもお伝えできればと思いますので、少々お付き合いいただければと思います。

 

国営企業から民間企業・国軍系企業へバトンタッチ

1962年から始まった軍政は、民間企業を大規模に接収・国有化し、ビルマ語学者の大野徹氏が当時の緬語日刊紙を引用して記録したところによると、以下のようなことが行われたようです。

石油合弁企業の接収(1963年1月)、全輸出入企業と米の買い上げ、配給機構の国有化(同2月)、全銀行二十三行の接収と人民銀行への改組(同2月)ビルマ経済開発公社の解体と関連企業三十九社の接収(同9月)、タバコ製造企業六社の国有化(同10月)…ラングーン市内の主要商店3千店の国有化と人民商店への改組(1964年3月)、ラングーン市内の全材木店の接収(同3月)、繊維工場十八の国有化(1965年3月)、石油採掘企業の接収(同4月)等が行われた。1963年から65年までの二ヶ年だけで国有化された企業の数は1万5千にのぼる。私企業の接収と並行して、四百を超える統制物資が定められ、人民商店以外ではその取引が一切禁止された。(大野徹1989)

このように国有化された企業には軍人が多数天下りしましたが、もちろん経営がうまくいくはずもなく1987年には国連の後発開発途上国に指定され、経済運営の失敗が明らかになりました。

数字で見れば、1988年の民主化運動直前の1987年には、国内総生産に占める国営企業の割合は、例えば、翡翠・ルビー関連の鉱業90%や、製造業41%建設業88%金融99%など、普通の感覚では考えられないほどでした。

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工藤 (2012)

これが1989年以降、民間企業や外資が一部参入し民間部門が成長したことで、急速に民間部門の割合が急速に高まりました。

時を同じくして、国軍は、市場経済化による国営企業の地位の低下と民間企業の台頭を見越して、1990年にMyanmar Economic Holding Public Company Limited (MEHL)、1997年にMyanmar Economic Corporation (MEC)を設立します。これら国軍系の2社は、民間に解放されるが免許や許可が必要な業種に有利な立場(注)で参入していきました。

(注)当時のMEHLやMECの経営メンバーについて情報は見つけることができなかったが、現在のこれらの会社の主要株主には国軍司令官以下現役幹部の名前があり、かつ、経営にも実質的な影響力を持つと言われている。

免許や許可が必要な事業に有利な立場で参入できることを見越して、民間企業や外国企業も国軍系企業と手を組むことを選んできたとみられます。特に公共事業や翡翠・ルビー・チークなどの資源関係は、民間企業も、少なくとも1990年代には、事業を成功させるために彼らを利用してきたという側面があることを認識しておく必要があります。

 

ミャンマー国営企業とはけっきょく何か?

ミャンマー連邦政府(特定の省と言い換えてもいい)と国営企業の関係は、今の日本で言えば、地方公共団体とその団体が運営する「(地方)公営企業」に近いと考えるとイメージしやすいと思います。例えば、日本のA市には水道事業を運営する水道局があり、公営企業会計原則に則り予算・決算を他の一般行政部門と分けて管理するなど、企業として独立しているように見えたりします。

(補足)昔で言えば、日本(タバコ)専売公社、日本電信電話公社日本国有鉄道などが戦後特別法により法人化(公社化)する前の形態とほぼ同じと考えられます。

つまり、ミャンマーにおける国営企業は、中には形式上公社化(法人化)しているものがあるものの、通常、ある省のひとつの部局とほぼ同列に扱われ、組織としてはある程度独立しているものの財政や組織運営においては本省との一体性が高い組織と言えます。

例えば、計画財務工業省下にあるミャンマー経済銀行の頭取は、同省の局長級の現役公務員が就任し、職員も公務員です。そして、こういった国営企業は、様々な国の様々な会社と共同で法人を設立したりして、そうした事業体にも出向という形で公務員を送り込んでいます。(注)

(注)かつて、計画財務工業省の前身組織の一部局がミャンマーにおける唯一の銀行であったこともありました。

世銀の包括的な財政評価報告によれば、かつて数万社あった国有企業は、小さな工場や商店を中心に民間に払い下げられたり、通常の行政組織に組み込まれたりして、2017年には32社までになりました。

政府歳入・歳出の35-45%を占めるなど政府財政の大きな部分を占めていますし、国内総生産(GDP)に占める国有企業の割合は7%と他の発展途上国と比べると低いものの、現地企業や外国企業との合弁事業における生産分も加えてみれば、未だ大きな影響力があると考えられます。

ちなみに、ざっくり言うと、GDP6兆円、国営企業売上4千億円といった規模感です。(4千億円はGDP計算上の生産額とは違います。念のため。)

なお、Myanma Oil and Gas Enterprise (MOGE)は、ミャンマーの輸出額第一位である石油・天然ガス生産を独占管理する国営企業(4/26補足:例えばガス田の開発・生産は外国企業が担っているがMOGEと組まなければならない)ですが、この国営企業GDPの6%に匹敵する利益剰余金(決められた割合を政府一般会計に収めた後の剰余金の累積)をため込んでいると言われています。日本の特別会計埋蔵金を彷彿させる話ですね。

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(余談)
1988年以降の経済開放に伴い国営企業は民営化したり財政的に行き詰まるかと思いきやそうはならず、依然として多くの国内消費財が国営工場から供給され続けたようです。国営のまま、国営企業が材料を有利に輸入できるように割安に外貨を割り当てる制度(公定為替レートでしか正式に交換できない制度)を続けていた結果、2000年代前半には生産能力も向上しない・外貨不足ということで経済破綻しかけたところ、大規模なガス田が発見されて外貨不足が解消されたので2000年代を通じて経済が生き返った、という経緯があります。(参考:三重野文晴, 2012)

 

国軍系企業とはけっきょく何か

Myanmar Economic Holding Public Company Limited (MEHL: 設立時の名前は若干異なります)は1990年、Myanmar Economic Corporation (MEC)は1997年に設立されています。(注)

(注)これらとは別に、軍は、国営企業としてではなく、工場や出版・テレビ事業を運用しています。1990年代には各地方司令部や部隊が給与の不足を補うために独自に様々な事業をしており、事業の良しあしにより部隊間の格差が生じて争いの種になってきたために、2004年には各部隊の独自事業禁止とのお触れが出された経緯があります。(Maung Myoe, 2009)

行政の一部局又はそれが公社化した国営企業とは異なり、国防省の部局が一部資金を拠出し、大部分の株式は地方司令部、部隊、現役軍人、退役軍人が保有する形で運用されています。このうちMEHLの株式所有構造は、2016年(民主派側が与党となった年)に変更され、現在はMEHLの株主名簿に国防省本省の部局は載っていないとのことです。(国連, 2017及びAmnesty International, 2020)

MEHLとMECが当時どのように設立されたかは資料を見つけることができませんでしたが、当初は国防省なり地方司令部が組織として全額を(現物)拠出する形で設立され、徐々にその株式を福利厚生又は手柄を立てた軍人への報奨のひとつとして軍人に配ってきた可能性が高いと考えます。

また、国営企業には、日本の財務省に相当する組織と日本の会計検査院に相当する組織が予算・決算を監視するしくみがあるのに対し、MEHLとMECにはそれがないという点も大きな違い(問題)です。

MEHLとMECから個人株主に支払われる配当金以外は、株主たる国防省の一部局や地方司令部その他部隊といった組織に支払われ、国防省の収入の一部として予算・決算に含まれ議会に提出されている可能性がありますが、MEHLとMEC自体の収入・支出や利益分配に関しては、日本の財務省に相当する組織や日本の会計検査院に相当する組織にチェック権がないのです。

上でも述べたように、国軍は、自身が経済開放・市場経済化へ舵を切ったことで、1990年代の国営企業の地位が低下することや民間企業が台頭することを見越し、民間に解放される業種にいち早く参入するために2社を設立し、(軍政なので軍トップが容易に差配し得る)免許や許可が必要な事業に有利な立場で参入していきました。

例えば、翡翠採掘はそれまで国が独占していましたが、民間に採掘権を入札させるにあたり、MEHL又はその子会社と現地企業・外国企業の合弁企業が入札に参加し、これらの事業に「民間」として参画するというポジションを築きました。

様々な業種で同じようなことをしてきた結果、今ではMEHL及びMECの子会社は最低でも106社は存在することが指摘されています。過半以下の資本関係がある関連会社や軍関係者の家族が運営する企業も含めれば相当な数になると言われています。(国連, 2019)

(更新)国軍企業の事業規模については以下をご覧ください。

そもそも、MEHLは、①軍人やその家族の福利厚生、②退役軍人やその家族の福利厚生、③公衆の福利厚生、④経済成長への貢献を目的を掲げていますし、MECは、①ミャンマー経済への貢献、②国軍の必要を満たすため、③国防費及び軍人福利ための負担を軽減するとの目的を掲げています。(注)

(注)ざっくりいうと、MEHLは軍人や退役軍人の福利厚生を充実させること(つまり儲かることはなんでもやる)に重点があり、MECは軍需関連物資を生産すること(重工業などが少し多い)に重点があるようです。

国営企業は、各政府機関がそれぞれの行政目的の範囲内で必要な事業をやっていると捉えることが(一応)可能なのに対して、MEHLやMECについては、軍需産業を育成するということなら行政目的と言える可能性がありますが、軍人の福利厚生のためというのは明らかに毛色が異なる目的と言えます。

国軍としては、文民統制の下での財政配分に任せていたら自分たちが必要だと思う予算が確保できないし、軍人への求心力も確保できない、1988年までは数万社ある国営企業を軍人のコントロール下に置いて求心力を保ってきたが、それも破綻し1989年以降はやり方を変える必要がある。だから、1989年からは別の形で事業を行って不足を補うという論理なわけですが、それが今に至る根本的な問題であると言わざるを得ません。

政府機関が営利事業を行うこと自体は、日本含め殆どの国で行われてきたことであり、それ自体が問題なのではなく、営利事業を行う部門とその業界に権限がある部門が明確に区別され、利益相反の問題を起こさないガバナンス体制を構築する必要があるということです。

この切り離しは容易なものではなく、他の行政機関が行う事業ですら賄賂や関係者優遇など多くの問題が生じています。これを軍がやればその切り離しがどう考えても難しいし(そもそもそのような意識もないだろうし)、控えめに言っても、強力な与党が党として公共事業会社を経営するようなものです。

ひとりごと

歴史は変えられないし、経済制度が一夜にして変わることはできないのは残念ながら事実です。本質的な変化を望むなら、ミャンマー「経済」を「民主化」しないといけないし、特に国軍系企業の「民主化」を実現することを目指すべきだと信じます。

国際社会は、そのための取組(注)ミャンマーに勧め、引き換えにそのための支援を行う、といった形でミャンマー民主化と同経済の民主化を応援することができると思います。

(注)株式を公開し上場する「民営化・株式公開」でもいいですがそこまでしなくても、日本の産業革新投資機構や日本政策投資銀行みたいな準最終形を目指して、まずは政府100%の株式を所有する投資会社のようになることなどがあり得るでしょう。株主から持ち分を買い取る際には、退役軍人には一般政府による年金受給権を配布し、現役軍人の給与水準を引き上げた上で接待や金品の授受に厳格に対処することを明確化すべきです。

国軍がクーデターが起こした理由については以下をご覧ください。 

(参考文献)
World Bank (2017), "Myanmar Public Expenditure Review 2017"
Maung Myoe (2009), "Building the Tatmadaw"
United Nations Independent International Fact-Finding Mission on Myanmar (2019), "The economic interests of the Myanmar military"
Amnesty International (2020), "Military LTD- the Company Financing Human Rights Abuses in Myanmar"
工藤年博 (2012), "ミャンマー軍政下の工業発展"
三重野文晴 (2012), "成長の構造とマクロ経済ー軍政下の経済20年の解釈ー"

これだけは知っておきたい、2月1日以降のこと

ミャンマーは、今、日々情勢が悪化しています。

3月27日の国軍記念日には過去最多の100名以上の死者が出てしまい、日本でもNHKや民放で生の映像が流れたことで、一気に注目度が高まったような気がします。(2月から死者累計500名以上と報道。)

興味を持ったという方が最近増えたということを期待して、おさらい的に、これまでの現地での出来事をむちゃくちゃ絞ってお伝えします。(注:ある程度主観が入ってしまうと思いますが、経緯を把握する観点から必要だと思う事実に絞って淡々と記載します。至らぬ点はご容赦ください。

これを読めば今日のニュースや新聞の内容が頭に入ってきやすいのではないかと思います。

 

2月1日と2月前半

ざっくりSNS上で抗議の声が徐々に共有され、最初の週末には早くも多くの民衆が外に出て声を上げ始めた。軍・警察は2月前半までは市民の反応を見極めるためか通常配備されている警察官がメインに対応していたとみられる。デモ集会に対しては、局所的に発砲があり犠牲者が出てしまったが、(今思えばこの期間は)基本的には様子見のスタンスだったと思われる。

2/1月⇒昨年11月総選挙で新たに選出された議員が一堂に集まる議会初日。早朝、アウンサンスーチー国家顧問、ウィンミン大統領、新たに選出された議員の多くが一斉に拘束される。また、2008年憲法上の緊急事態宣言により、国軍総司令官が行政権・立法権司法権すべてを掌握。選挙不正が国家の安定を損ねたためと同宣言の合憲性を主張。(憲法では「一定」の場合に「大統領」が緊急事態宣言を発して3権を国軍総司令官に移譲できるを定めている)

クーデターの背景については↓を読んでみてください。

myanmareconomy.hatenablog.com

2/2火⇒立法権を行使するため国家統治評議会(State Administrative Council: SAC)発足。(行政権・司法権を行使するための閣僚も適宜任命)。

2/3水⇒拘束中のアウンサンスーチー国家顧問らが訴追される(3/31時点も拘留中)。SNS上でCivil Disobedience Movement (CDM)活動不買運動が広がり始める。夜8時の鍋叩き運動が徐々に広がる(悪霊退散の魔除け=日本でいう家から塩を撒く感じ。以降毎日続いている。)。

2/5金⇒拘束から解かれネピドーを離れたNLD議員らが主導し、オンライン会議で国民の唯一の正当な代表として、連邦議会代表委員会(CRPH)を結成。以後、随時独自の法令等をSNS上で発出しSNS上で多く支持を集める
2/6土⇒昼頃から完全にネット遮断される(土日のち回復)。市民が町中に出始める。
2/7日⇒全土にデモが拡大し数万人規模になる。

 

2/8月⇒夜間外出禁止、5名以上集会の禁止令が出される。CDMに参加する職員ボイコット及びデモによる出勤不能民間銀行は店頭業務休止(以降継続)。幅広い業種で通常営業がストップ。

2/9火⇒ネピドーで19歳の女性が撃たれ重体(19日死亡確認。初の死者)と報道。

2/10水⇒米国制裁発表(11日詳細決定・公表)

2/12金⇒刑事犯含む2万人以上を恩赦により釈放。以降夜間の放火未遂等増える。

2/14日⇒ヤンゴン市内に軍装甲車が見られるようになる。夜間の完全ネット遮断始まる(以降ずっと)。刑法が改正されデモ活動家を幅広く逮捕可能に。

 

2月後半・エスカレート

ざっくり:2月後半はデモが更に拡大し様々な言語のプラカードを持って国際社会に訴えるなど持続的な力を見せつけた。一方、26日にはヤンゴンで遂にデモ集会を強制的に解散させる実力行使がなされた。その2日後の大規模デモでは参加者に一気に多数の死者や被害が出た。

2/15月⇒現地財閥トップ数名が尋問されていたことが報道される。CDMとしての職場ボイコット運動が政府職員にもかなり広がる(肌感覚では職員の1/3ぐらい。行政機関によって温度差あり)。中央銀行前等で大規模デモ発生。

2/16火⇒2月に入って初の国軍総司令官本人による記者会見(SNS上で反発広がる)。2月に入って初の国債入札約200億円が不調となりほぼ調達できずに終わる。

2/17水⇒デモが全土で数十万規模に。政府関連HPへのサイバー攻撃広がり一時アクセス不能に。

2/18木⇒英国制裁発表。シンガポール外相「幅広い制裁すべきでない」との発言がミャンマー国民の反発を買い不買運動が発生(ミャンマー国民は厳しい制裁をすべきとの意見多数)。

2/20土⇒第二の都市マンダレーで少なくとも死者2名。在緬丸山日本大使がデモ隊と対話しSNS上でミャンマー人から好意的な反応が広がる。

2/21日⇒日本外務省がミャンマー渡航の危険レベル引上げヤンゴン地域レベル2:不要不急の渡航は止めてください)。

 

2/22月⇒1988年8月8日の「8888」民主化運動になぞらえ、2021年2月22日の「22222」運動としてデモが最大規模となる。世銀がクーデター以降の事業資金支出を停止。インドネシアが平和の早期回復のため、「(国軍が主張する)再選挙を支援する」と言及したと伝わりミャンマー国民の反発を買い炎上。CRPHが特別代表としてDr. SaSa氏を任命し、Dr.SaSa氏が積極的な活動開始。

2/23火⇒国軍側が組織するSACが、政治・経済・社会に関するSAC基本方針9項目を発表。民主主義や連邦制、少数民族との和平合意、海外投資促進や経済発展などを目指すと明記。

2/26木⇒デモの様子を撮影していた邦人ジャーナリストが拘束され、日本大使館が対応したことにより夕刻に釈放される。国軍側のSACによる新委員任命で新たにスタートした選挙管理委員会が、政党への参加を呼び掛けた会合を始めて開催(53政党参加・38政党欠席)し、比例選挙制が示唆される。国連総会特別会合で緬国連大使(前政権からそのまま継続して執務にあたっていた)が軍を非難するスピーチをしてミャンマー及び国際社会の注目を集める。

2/28日⇒ミルクティー同盟(注)」と呼応することで、タイ、台湾、香港などでもミャンマーの軍事クーデターに反対するデモが大規模になった。ミャンマー内では一日で少なくとも死者18名(過去最多)と一気に増加。

(注)「ミルクティー同盟」香港、台湾、タイ、ミャンマーで起こっているネット上での民主化連帯運動。これらの国ではお茶にミルクを入れて飲む文化あるいはそのような飲み方が見られるのに対し、中国ではそうではないということでこのような名前が付いていると言われる。

 

3月前半・さらにエスカレート

ざっくり:2月末から、国軍側が街中のデモを積極的に排除する動きを加速させた。3月上旬には現地メディア、アウンサンスーチー氏が率いるNLDの事務所などに軍が入り資料・機材を押収。デモ主導者とみられる人々の自宅等にも軍が入り連行されたり、無辜の市民が撃たれたり乱暴を受けるなど目を覆いたくなる事案が多数発生した。なお、この頃には外国人含め最低限の買出しなどの際でも相当な注意を要するようになった

3/1月⇒CRPHが国軍側が組織するSACをテロ組織に認定し、国際社会に支持を要請。

3/3水⇒各地で激しい衝突あり一日で少なくとも死者38名(過去最多)ヤンゴン市内では至るところに土嚢などを使ったバリケードが作られた。この辺りからSNS上で残虐な映像が目立つように

3/4木⇒一部の軍人・警察官が市民への弾圧を忌避して、国境を接したインドや少数民族武装勢力が支配する地域に逃げ込む等の報道が出始めた。

3/5金⇒CRPHが政治目標を発表し、国軍側が起草した2008年憲法の廃止と新憲法制定の方針を明確化。国連安保理が開催され、10日に非難の議長声明が出されるが英国が提案していた強い制裁の可能性への言及はなかった。

 

3/8月⇒中国に反発するミャンマー国民がSNS上で、インド洋からミャンマー中央部を通って中国本土に繋がる石油とガスのパイプライン下図参照)への攻撃を示唆。5つのミャンマー現地メディアが免許剥奪。

3/10水⇒アジア開発銀行が資金支払、新規案件を一時停止。

3/14日⇒ヤンゴンの複数(中国側発表で約30工場)の中国系工場で大規模火災ファーストリテイリングの取引先工場も被害に)と衝突発生。各地で激しい衝突あり一日で少なくとも死者74名(過去最多)

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劉大煒・山口健介(2015)「中国~ミャンマー石油天然ガスパイプラインの建設に対する考察—国内の政策過程と国際エネルギー調達をめぐって— 」より

 

3月後半・もっとエスカレート

ざっくり:3月後半に入り、27日の国軍記念日までに街中を平常運転に戻したいと考えてか、一層強硬な姿勢でデモやCDM弾圧に動き、7歳や10代の幼い子供含め死者・被害が激増した。街中では至る所にあったバリケードは通行人や住人が徴用され撤去された。他方、多くのミャンマー国民は相当危険な状況と承知の上で、集合場所を秘密に共有したり、プラカードを持たせた人形多数を道路に並べたり、様々な工夫によりデモを継続し国際社会に訴え、CRPHを応援した。

3/15月⇒前日の工場火災を受け、ヤンゴンの一部地域に戒厳令(逮捕されたら裁判所でなく軍法会議に係ることになる)。併せて携帯電話によるネット接続が全面的に遮断開始(固定回線は日中だけ利用可。以降3月末時点で遮断継続)。

3/16火⇒銀行を監督するミャンマー中央銀行による再三の営業開始指示(営業しなければ罰金や銀行免許剥奪を示唆)を受け、地場銀行一部支店が店頭営業を相当限定的に再開。国連の世界食糧計画(WFP)が2月に入って都市部を中心に食料品などの物価高騰が見られると指摘(なお、物流停滞により地域によっては極端な高騰又は低落もみられる)。

3/17水⇒CRPHが少数民族武装勢力のテロ指定を解除。CRPHが少数民族武装勢力と共同して連邦軍」を組織するとの情報が拡散され、SNS上で「連邦軍」を期待する声・参加したいとの声が多数あがる。一部の少数民族武装勢力がこれに呼応する動きをみせる。

3/21日⇒国軍側が組織するSACがCRPHを違法組織と指定。

 

3/22月⇒EU制裁発表。

3/24水⇒全土で屋外でのデモではなく自宅から抵抗を意を示すサイレント・ストライキ。いつも空いている街中のスーパー含め全て休業になる。

3/25木⇒米国が国軍系2社(Myanmar Economic Corporation:MECとMyanmar Economic Holdings Public Company, Ltd.:MEHL)を制裁対象に追加。英国もMEHLを制裁対象に追加。(英国は4/1にMECも制裁追加。これらは多数の子会社を持ち外国企業との合弁事業も多いため、これまで米国、英国、EU等が決定していた特定の国軍関係者への制裁とは一線を画する。)

3/26金⇒CDM活動」がノーベル平和賞候補にノミネート。

3/27土⇒国軍記念日にネピドーで軍事パレードが開催され、ロシア、中国、インド、タイ、ベトナムラオスバングラデシュパキスタンが出席。午前、カレン族少数民族勢力が国軍施設を攻撃。同日午後、国軍が報復として同地域を空爆したことにより、国境を接するタイ側に3000人の避難民発生(下図参照。その他少数民族の動きについてはこちらこちらを参照。)。各地で激しい衝突あり一日で少なくとも死者100(過去最多)。

3/31水⇒CRPHが現行憲法の廃止と新憲法具体化に向けた連邦民主憲章を採択。国連安保理が開催される(今後決議ないし声明が出される見込み。4/2現在:ロシア、中国が制裁に反対との姿勢崩さずとの報道あり)。

4/1木⇒カレン州で3月27日からの断続的な空爆で2万人を超える避難民が発生。

(補足1)経済面の現状はこちらの報道も参考にしてください。
(補足2)少数民族武装勢力の動向はこちらの報道も参考にしてください。

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(引用)2021年3月29日日経新聞電子版より

 

(参考)民間有志によりこれまでの死者数などがグラフで表示されています。